2014年10月01日

50週年を迎えた東海道新幹線に思う

・ 東海道新幹線の列車冷房(1964年 昭和39年10月開通)
0系新幹線が2012年10月限りで引退となりました。実はこの車両の列車冷房は私が会社に入って担当した仕事でありました。もう50年も前の話であります。当時の列車冷房は、床下に設置するのが一般的な時代でした。特急“あさかぜ”とか“富士”“はやぶさ”などがそれであります。これも靜岡で作ったのだそうです。それを当時の国鉄さんの設計で天井に据え付けたのであります。今で言うカセット型のエアコンでありました。この車両は全ての点で最新技術を駆使しました。最新技術というものはすばらしい事は勿論なのですが、今で言う信頼性という点では手探りの状態である技術も数多くありました。
私も会社に入って2年目でしたし、東京オリンピックに向け、日本全国がその準備に必死に燃え上がっている時代でした。1964年(昭和39年)であります。

今まで、新幹線は大きな事故が無い事で世界的に有名な事になっていますが、今から思いますと、内部の運営は火の車でした。綱渡りと言うか、背水の陣というか、国鉄さんとメーカの意地と信頼を掛けた、必死のメンテナンス体制が功を奏したと思います。

私の知っている事故は、車両のスカート部分の薄利、パンタグラフの異常磨耗、メインモータのブラシの異常磨耗、そしてエアコンの事故なのでした。これらが表面化しなかったのは、国鉄さんの細かなメンテナンス体制がしっかりしていた事、そして損得を抜きにして各メーカがこのメンテナンスシステムの万全の協力を惜しみなくした結果だと思います。

私は当時の新幹線基地(京都の鳥飼と東京の品川)に入りびたりでした。特に品川基地には泊り込みで張り付きました。

会社に対しては私の技術の低さに対する、お詫びと言うものを幾ら言っても言い過ぎることはないと思います。当時、私のミスで圧縮機のモータの中でレアーショートしてしまう事が発覚しました。冷蔵庫の不良が落ち着きましたので、この新幹線の列車の模型を工場の中に作り、そこで列車冷房の実験をしていた時に、事故は起こりました。急に空調が止まってしまったのであります。原因はレアーショートでした。報告書はしっかりと現象のみを書いて、原因とか対策までは書けませんでした。どうするでもなく、また実験を続けていました。自分では原因追求までたどれなかったのであります。

そんなレベルの技術屋に、その新幹線の列車冷房を任されたのでした。でも工業高校出たての若い技術屋には荷が重過ぎました。
失敗に告ぐ失敗に気がつかないで、そのまま時間だけが過ぎていった1964年でした。失敗が失敗と分からないから、5月の連休には尾瀬にハイキングに行って遊んでいました。でも帰ってきたら社内は大パニックになっていました。新幹線は全ての機能が完全に動作する事が前提であります。つまり何か故障すると自動的に新幹線は停車するように設計されています。従って空調機が故障しても新幹線が自動的に停車するのです。
停車すれば安全ですが、オリンピックの運営には大きな支障が出るのであります。
つまり“オリンピックをぶっ潰す”事になるのであります。
10月1日が開通日でしたが、その発覚が5月連休中でした。
対策会議が全社をあげて実施され、多くの事故原因の一つ一つに対して、2重3重の対策を実施し、すでに納めた全てのエアコンを10月1日までに全て交換したのでした。19歳の若さで品川の基地に20人くらいの労務者を雇い作業を指示して、旧型を下ろして対策品を据え付けていく私でした。こんな事を今の19歳の社員がする事は無いでしょうし、出来ないと思われました。当時の高校卒の社員はこのくらいの権限と責任感を持って仕事をしていたのであります。

それまで収めたすべての空調機を交換し、それも特別仕様のものに交換して絶対に故障の出ないものにする事でした。しかも納期的には5月から7月末までに全てを完納する計画でした。故障が絶対に出ない空調機に仕上げた新しい空調機を連日の徹夜で仕上げて納品しました。そして毎日のようにテスト運行に立ち会いました。
パンタグラフが吹っ飛び、メインモータのブラシが異常磨耗した新幹線は10月1日に開通しました。(これらは全て開通後に徐々に改善して今では完璧です)対策品は、当然短納期ですから、今では考えられないような勤務体制で乗り切りました。国鉄さんの担当者から”君は東京オリンピックをぶっ潰すつもりか”とお叱りをいただいた事を昨日のように覚えています。
まさに、もしこの対策品がまたレアーショートしたら、新幹線は停止(実は事故を起こすと新幹線は自動的に停止するシステムになっています。これも三菱電機の製品であります)するだけでなく、東京オリンピックの運営の一部が不可能であったと思われます。




交換した新型はその後、全く無事故で今でも活躍しています。さすがだなと先輩方の力の凄さをまざまざと見せ付けられたものであります。

我々だけでなく多くのメーカが毎晩のように新幹線の基地内のメーカ詰め所で、毎晩のように、何らかの工事をしていました。メーカの人間も、最初は、よそよそしいのですが、そのうちに慣れてきてお互い話し合うようにもなりました。

車両メーカ、パンダグラフメーカ、電気メーカ、塗装メーカ、溶接屋さん、などなど、本当に皆様、当時の日本の最先端の技術を持っている会社さんばかりでしたが、これらの方の並々ならない苦労が今でも忘れられません。

この頃、新幹線の列車冷房の機械の一部がこの静岡市で生まれていた事は、あまり知られていませんので、ここに御披露する次第です。正しく言うとモーターは名古屋で生産し、それを使って圧縮機の製作を静岡で実施しました。この圧縮機を長崎にて新幹線用の列車冷房装置に組み立てていたのであります。しかし事故を起こしてしまいましたので、それでは間に合いませんでした。そこで静岡にて列車冷房装置を製作したのであります。
蛇足ですが、戦時中は、戦闘機のエンジンがこの静岡市で作られていた事も知られていませんが、私の入社した時にはこのエンジンの試験塔が2基、工場の隅に存在していた事を覚えています。現在公開されている“風立ちぬ”というアニメの中に出てくるエンジンもここ静岡で作られた物かもしれません。
ゼロ系の新幹線があるから今の新幹線があります。本当にご苦労様でした。埼玉の鉄道博物館に展示されているこの車両と冷房装置を見に行って来ましたが感無量でありました。私がいなければ、オリンピックは出来なかった・・・?
私の担当した空調機は開通以後は順調に動作し、故障は皆無でした。
忘れられない東京オリンピックの舞台裏であります。
今回の2020年東京オリンピックでも舞台裏では、苦労しているであろう技術屋がいる事を想定している私であります。

このような苦労が今では実を結び、世界の列車冷房技術は弊社が強い指導力と市場占有率を持っていることとなりました。


同じカテゴリー(社会事故・事件)の記事画像
スコットランドの独立選挙に思う
今朝の新東名
フィリピンのタクロバン
伊豆へのグルメの旅 その2 金目の煮付けと高足蟹
伊豆へのグルメの旅 その1 うなぎ
ロンドンオリンピック最終予選の応援
同じカテゴリー(社会事故・事件)の記事
 東芝の不正会計、粉飾決算 (2015-07-30 18:05)
 航空機元年 (2015-05-19 14:56)
 福島第一原発の事故調査用ロボットの故障について (2015-04-14 00:45)
 香港のデモに思う (2014-10-06 05:59)
 YOU TUBEのアジア大会の知られざる情報 (2014-09-30 06:17)
 スコットランドの独立選挙に思う (2014-09-18 06:27)

Posted by TAC at 06:19│Comments(0)社会事故・事件
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
50週年を迎えた東海道新幹線に思う
    コメント(0)